学長メッセージ
学長 田村俊輔
本学は「こころを育てる」を教育目標の基本に掲げています。この「こころ」についてお話しします。それは他者に共感する力を持ったこころです。
本学の建学の理念であるキリスト教の中心メッセージは「神が愛したように互いに愛し合いなさい」です。「神の愛」とは、人間一人ひとりのかけがえのない固有の存在を尊び、慈しみつつ、その成長を助ける愛です。聖書の中でイエスは、そのような愛で人間がお互いに愛し合うことによって生み出される世界を創っていくことを説いています。
そのためには、他者が痛みを持っている時、苦しんでいる時、その痛み、苦しみを自分のことと感じる共感能力が必要です。この共感能力とは、感じるだけではなく、その痛みを共にし、その問題解決のために自分ができることは何かを考え、実行に移すことができる力を内包するものです。
本学は、教育と教職員、学生同士の触れ合いを通じて、学生ひとり一人が神の愛で慈しまれていることを体験し、その体験に基づいて育まれる共感能力を身につけて、お互いを大切にして日々を過ごせる教育環境を提供します。
このような環境の中で、ここに集うひとり一人が、よりよい社会の一員として羽ばたけるようになることを目指しています。
2023年度卒業式 式辞
卒業おめでとうございます。
皆さんをお送りするに際して、「輪」 についてのお話をいたします。
「輪」とは、車輪の「輪(りん)」のことです。
グローバル化が進むことによって、世界中に、様々な変化が起きてきました。経済を中心として、文化、情報が国や地域の壁を越えてつながり、それまでになかった新しい動きが可能となり、その恩恵にあずかることができるようになりました。これは、グローバル化の「肯定的な」側面です。
しかし、グローバル化によって生じた「否定的な」問題に苦しむ人々も増えてきました。
問題の一つは、社会のあちこちで生じてきている「格差」の問題です。格差はいつの時代にも存在してきました。しかし、富める者と貧しい者、強い者と弱い者との間の格差が、極端な形で、広がってきているのが 今日の世界です。
なぜ、格差が広がってきたのか。その理由の一つとして、グローバル化等の動きを通じて、冒頭に触れた 「輪のしめつけ」が強まってきたことによると思います。
どういうことでしょうか?
「内輪の論理」 という言葉があります。いろいろな意味でつかわれる言葉ですが、次のようなメンタリティを示す言葉としても使われます。
それは、自分を中心に置き、自分に利益をもたらすと思われる人々を ひとつの輪でくくり、その輪の中の人間たちは大切にするが、その輪の外にいる人間たちは 「赤の他人」として、 関心を持たない、助けようとも、触れ合おうともしない。極端な場合には、内輪の利益を守るためには、輪の外の人間を犠牲にしても構わない、という考え方です。
このような考え方にさらされるとき、私たちは、この世界で生きていくためには、何とかして「輪の中に入ろう」とし、その輪から「はじかれないようにしよう」と必死になります。その輪の中に入っていれば安心である。入っていないと、この世界で生き残れないのではないか と恐れるからです。
しかし、輪の中に入ったとたん、気づくことがあります。それは、輪から外されないためには、その輪の中で、暗黙のうちに、「空気」のように定められている決まりに 異議を唱えることなく、同調し、その空気を乱さずに行動することが 求められるということ。さらに、内輪の中にいても、空気を読めない、読もうとしない人間は、簡単に切り捨てられるということに。
その結果、輪の中に入れてはもらいたい、しかし、輪が生み出す同調圧力によって、助けられるどころか、苦しみを抱えることにもなるという現実を知るのです。
内輪の同調圧力に苦しんでいるのは現代人だけではなく、イエスが登場したユダヤの社会に生きた人々も同様でした。
先ほどの聖書朗読で聞いていただいたお話は 「善きサマリア人のたとえ」 と呼ばれているものです。 このお話は様々な角度からメッセージを読み取ることができますが、今回、 このたとえ話を聴いていた「聴衆の心」に目を向けてみたいと思います。
この話は、ユダヤ教の律法学者とイエスが、大切なユダヤの掟を巡ってやり取りする場面から始まります。それは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」という掟です。そのやり取りの中で、イエスは、律法学者から、「私の隣人とは誰ですか?」という問いを投げかけられます。
当時のユダヤの社会は、律法という厳格な決まりが支配する社会で、その社会において、「隣人」とは「ユダヤ人という仲間」を意味しました。したがって、隣人として愛する対象はユダヤ人という「内輪の人間だけ」であり、ユダヤ人でないものは、愛すべき対象とは見なされない、という考え方が強く、その考え方に表立って異を唱えることは困難でした。
この律法学者は、イエスの存在を快く思っておらず、 「隣人とはだれか」という問いを投げかけることで、イエスが、彼らとは異なった考え方を口にするように 仕向けます。そうすることで、イエスを、「彼らの社会を乱す人物」として 糾弾しようと狙っていたのです。
聴衆は、かたずをのんで、この問いへのイエスの答えを見守っていました。
そのような状況をよくわかっていたイエスは、答えの代わりに、このたとえ話をします。
ある人が 岩山を縫って続く道で 追いはぎに会い、半殺しにされ 道端に置き去りにされました。そこへ、ひとりの祭司が通りかかり、その男に気づきますが、助けることなく、道の反対側を去っていきます。もう一人、レビ人が通りかかりますが、祭司と同じように、道の反対側を通って去っていきます。
祭司とレビ人というのは、ユダヤ教の社会の中心的役割を担う人々です。
彼らにしてみれば、追いはぎにあって倒れている男は、どこの誰ともわかりません。 「赤の他人」つまり、助けるいわれはない存在です。そして、もし、倒れた男が「ユダヤ人」つまり、「身内」であったとしても、助けることで、なんらかの面倒が生じると考えれば、自分の都合を優先して通り過ぎるのはしかたない、という彼らの内輪の論理に 従ったにすぎないのかもしれません。
話をここまで聞いた聴衆は、祭司とレビ人の「素通りしてもしかたない」という理屈はよくわかっています。しかし、それでもなお、彼らのうちに、次のような思いが浮かんだことは想像に難くありません。「内輪の理屈はわかります。でも、本当に、助けなくてよいのですか」という心の声です。
話は続きます。次に、ひとりのサマリア人が通りかかります。ユダヤ人たちはサマリア人を 隣人とは見なさないばかりか、自分達より劣った民族として 軽蔑していました。そのサマリア人が、倒れていた男に歩み寄り、時間と労力とお金を犠牲にして、この男を助けるのです。
助けた理由について、イエスは、そのサマリア人が、けがをしている人を見て「憐れに思ったから」と述べています。 この「憐れに思う」と日本語に訳されている言葉の、原語のギリシャ語は「はらわたがえぐられるように気の毒に思う」という意味だそうです。
この話を聞いている聴衆のユダヤ人たちの中にも、倒れていた男に対して、サマリア人と同じように、 「はらわたがえぐられるような思い」を 感じていた人が 少なくなかったはずです。しかし、律法社会という 輪の締め付けの強い社会の中に 息をひそめて暮らす彼らは、「どんな人であっても 助けるべきではないのか」などとは、口にしたくても できなかったのでしょう。
それ故に、日頃自分たちが軽蔑しているサマリア人が、心の命じるままに、相手が「身内か否か」などという問題を度外視して、困っているひとを助ける姿に、驚き、かつ感動したのではないでしょうか。そして、この意地悪な質問をした律法学者も、聴衆たちの心の声を無視することはできなかったのでしょう。イエスから、 「さて、あなたは、この三人の中で、誰が、追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われた律法学者は、しぶしぶ、答えます。「その人を助けた人です」と。
「身内」という「輪」の空気の圧力に おびえて立ちすくむ間に、そんな垣根を 軽々と飛び越えて行動する人がいる。そんな姿を示すことを通じて、イエスは、内輪の論理に縛られて 窒息しようとしている聴衆の心を、律法社会の同調圧力から解放した、ということができるのではないでしょうか。
イエスは最後に聴衆に向かって言います。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。
この言葉は、聴衆たちにひとつの確信を与えたことでしょう。
神の目に「隣人」とは、「すべての」人間である。困っている人を目の前にしたとき、内輪の論理に縛られず、『ひと』である限り湧き上がってくる、「あたりまえの思い」に従って、助けの手を伸べ、その人とつながろうとしてよいのだ、と。そして、その確信は、彼らの心に「助けを求めている人がいたら、それが誰であろうと、私は助ける!」という決意を生んだのではないでしょうか。
能登半島地震が起こったあと、直ちに現場へ向かった人、ボランティアに行こうとする人たちに対して、SNSを中心に、ボランティアの自粛論、迷惑論等の多数のバッシングが飛び交ったようです。
しかし、そのようなバッシングにもめげず、ボランティアだけでなく、様々な援助の手を伸べる人が後を絶ちません。そして、その一方で、仲間内の利益確保のためにあくせくする人々に関するニュースを目にするとき、私の心に、イエスの問いかけが静かに響いてきます。
あなたは、身内の利益だけを求める輪の中に自分を閉じ込めて、輪の外の出来事に目を閉ざして生きるのか、それとも、輪を飛び越えて、輪の外の世界に自分を開き、すべての人と、 「隣人としてつながる幸い」に 生きることを選ぶのか と。
これからの人生、自分の生き方について、様々な選択に直面するでしょう。その時々に、このサマリア人のたとえを通じてイエスが語りかける声に、どうぞ耳を澄ませてください。
卒業おめでとう。神の慈しみに支えられた豊かな人生でありますように。
清泉女学院大学
清泉女学院短期大学
学長 田村 俊輔