清泉女学院大学 清泉女学院短期大学

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学長メッセージ

学長 田村俊輔
学長 田村俊輔

本学は「こころを育てる」を教育目標の基本に掲げています。この「こころ」についてお話しします。それは他者に共感する力を持ったこころです。

本学の建学の理念であるキリスト教の中心メッセージは「神が愛したように互いに愛し合いなさい」です。「神の愛」とは、人間一人ひとりのかけがえのない固有の存在を尊び、慈しみつつ、その成長を助ける愛です。聖書の中でイエスは、そのような愛で人間がお互いに愛し合うことによって生み出される世界を創っていくことを説いています。

そのためには、他者が痛みを持っている時、苦しんでいる時、その痛み、苦しみを自分のことと感じる共感能力が必要です。この共感能力とは、感じるだけではなく、その痛みを共にし、その問題解決のために自分ができることは何かを考え、実行に移すことができる力を内包するものです。

本学は、教育と教職員、学生同士の触れ合いを通じて、学生ひとり一人が神の愛で慈しまれていることを体験し、その体験に基づいて育まれる共感能力を身につけて、お互いを大切にして日々を過ごせる教育環境を提供します。

このような環境の中で、ここに集うひとり一人が、よりよい社会の一員として羽ばたけるようになることを目指しています。

2024年度入学式 式辞

 ご入学おめでとうございます。入学に際して、「清泉」という大学名の由来についてお話しいたします。
 皆さんは、授業中、先生から「質問がある人は手を挙げて」と言われたとき、手を上げて質問することができますか?「はい、手を上げます」と 答える人もいるでしょう。しかし、質問があっても、手を上げない方も 多いのではないでしょうか?なぜ、手を上げないのでしょうか?
 最近出版された『先生、どうか皆の前でほめないでください。――いい子症候群の若者たち』という本があります。この本の中で、著者の金間大介氏は、学校で生徒たちが手を上げないのは、「皆から注目されることへの恐怖」があるからだ、と述べています。
 質問だけではなく、提案、意見などを口にすると、周りのみんなが 自分のことを「浮いている」と、白い目で見るのではないか、などという不安に襲われる。つまり、自分の考えを口にすることによって、仲間の空間から はじきだされてしまう不安があるため、言いたいことがあっても 口をつぐんでしまうのではないでしょうか。
 このような現象は、若者だけではなく、大人たちにも起きています。
 しかし、自分の言いたいことを 口にできない状態が 続くことは、どんなに苦しいことでしょう。ひとによっては、こんな状態が当たり前になってしまって、痛みさえ 感じなくなっているかもしれません。
 それでは、この状態から抜け出る方法はないのでしょうか。

 私たちの心は、いくつもの層が重なり合って 働いています。しかし、恐れによって、言いたいことを 口にすることができないことは、心の動きを妨げ、それによって、さらに苦しさが膨らんでいきます。
 しかし、一日が終わって ゆっくりしているとき など、何かの拍子で、日中の騒がしさの中では気づかなかった、ささやかで、あたたかな声が 心の奥底に、聞こえてくることがあります。
 その声は、「これから 私は、どんなふうに 生きてゆけばよいのだろうか」「私は人生から 何を求められているのだろうか」などという、この世界に生きる 「自分」という存在の「根幹」 にかかわる問いを、静かに 問いかけてきます。
 この 心の底に語りかける声は、「ささやか」であるため、心が騒がしすぎると その存在に気づくことができません。しかし、この声に気づかせる きっかけとなるのが、様々な苦しみや痛みなのです。
 自分の気持ちを口に出せない苦しさなどの、様々な苦悩を経験するとき、 のどが渇いた鹿が 水を求めて、谷を下ってくるように、 私たちの心は、その心の渇きをいやす水を 探し求めるようになります。そんなとき、心の底に、自分の心の今のありさまを、温かく受け止めつつ、問いかける声が 存在していることに 気づくのです。

 聖書の中の「福音書」と呼ばれる書物の中から、一つのエピソードを 後ほど 朗読していただきます。そのエピソードは 次のようなものです。
 約2000年前、現在紛争が続いている パレスチナ地方に 登場したイエスが、旅の途中、のどの渇きを覚え、人里離れた場所にあった 古い井戸で 水を飲もうとします。しかし、水をくむものを持っていなかったため、たまたま、その井戸へ 水を汲みに現れた女性に、水を飲ませてくれるよう頼みます。
 当時の女性たちにとって、水汲みは 朝一番の仕事でした。また、この話に登場する井戸があったのは、シカルという場所 であった と書かれています。シカルという場所は 村の中心から 何キロも離れた場所ですから、普通、そんなところの 古い井戸に、わざわざ 水を汲みに来る人はいません。そんな場所に、昼の炎天下、一人で水を汲みに来た、という事実から、この女性が、社会的に 何らかの事情を抱え、彼女の属する集団から はじき出されて、村の井戸では 水を汲めなかった可能性を 読み取ることができます。
 仲間と一緒の場で 水は汲めない。しかし、生きていくためには、どこかで水を得なければならない。 この女性に遭遇したイエスは、彼女の中の、仲間から排除されている 深い悲しみを理解します。そして、彼女が求めているものが、からだを潤す水だけでなく、それ以上に、他者とつながり、「人として」他者から慈しまれることへの 心の渇きであることを、彼女自身に 理解させようとします。そこで、イエスは、つぎのように語ります。
 「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むものは 決して渇かない。わたしが与える水は その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と。

 ここでイエスが言っている「永遠の命の水」とは何を意味するのでしょうか?それは、人間の心の深層に注がれている、「何者か」の「慈しみのまなざし」であると思います。この「何者か」が「誰」であるのか、「何」であるのか、例えば、神であるとか、仏であるとか、文化や宗教の違いによって呼び方は異なるでしょう。
 しかし、人は、どれほどに傷つき、苦しんだとしても、心の底に流れこんで泉となる、この「慈しみのまなざし」に触れる時、癒され、様々な恐れから解放されて、確かな足取りで、新たに歩みだすことができるのです。
 泉は、また、ため池などとは異なり、絶えまなく清い水が湧き出で、周りに流れていきます。同じように、心の奥底に 静かに流れる 泉の水に触れるとき、私たちは、その水が、時と場所を超えて、自分の外へ 流れようとしていること、そして、様々な日々の行いを通じて、自分の外へ、その水を流すとき、自分の心が 豊かに 育まれ、広がっていくこと に気づくのです。
 泉は、また、水源を共有することで 他の泉とつながっていきます。同じように、人間ひとりひとりの心も、大いなる何者かの「慈しみのまなざし」という「共通の源泉」を通じて、全ての人々の心とつながっているのです。
 多くの宗教や思想家たちが、この「万人を、時と空間を超えてつなぐ心のメカニズム」に着目してきました。心理学者のカール・グスタフ・ユングは、「集合的無意識」という言葉で、このメカニズムが すべての人間の中に 「生まれつき」備わっており、そのメカニズムによって、人類がつながっていると述べています。イエスが言った「永遠の命の水」の意味を考える一つのヒントとなるものです。
 能登半島地震で水道が寸断され、そして、イスラエルの攻撃によって、「天井のない牢獄」に閉じ込められたまま 水を求める パレスチナの人々の姿が 伝えられています。しかし、特に、パレスチナの人々が求めているのは、のどを潤す水以上に、彼らの「人間としての存在」を尊び、慈しむ「いのちの水」なのではないでしょうか。
 飲む水は、水道管が復旧し、水が入ったポリタンクが届けられることで、ある程度の解決は見込めるかもしれません。しかし、彼らが、見捨てられることなく、人として、この世界に存在することを 尊ばれたい という渇きを いやすことができるのは、心の源泉において、その痛みにつながり、命の水を分かち合うことができる 私たち一人一人 なのではないでしょうか。

 先のエピソードの女性は、社会の中に 居場所を失った苦しみを抱えて 古井戸に ひとり、水を汲みに来ました。しかし、そこで彼女は、イエスと出会います。 そして、イエスとのやりとりを通じて、「永遠の命の水」と その水が流れ来る 泉の存在に気付きます。女性は叫びます。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」と。 この叫びを聞いて、イエスは微笑み、つぶやいたに違いありません。「その水は、すでにあなたの心に流れてきている。その泉から汲んで飲みなさい」と。
 清泉、清い泉、という校名は、スペイン語の「Fuente de Pureza(フエンテ・デ・プレザ)」の日本語訳で、ここに述べた聖書の個所に由来するものです。わたしたちは、この校名を通じて、皆さんが、自分の心の底に、生まれたときから存在する泉に気づき、そこに流れ来る「慈しみのまなざし」によって、傷をいやされ、恐れから解放されること。そして、自分の中から流れ出ようとする泉の水を、自分の周りの人々、人間の生命を支えるこの地球へそそぎ、新しく、より豊かな時代を 生み出していくよろこびに 目が開かれていくように、と願うものです。

 入学おめでとう。いのちの泉の水に浸された豊かな学園生活でありますように。

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学長  田村 俊輔

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