清泉女学院大学 清泉女学院短期大学

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学長メッセージ

学長 田村俊輔
学長 田村俊輔

本学は「こころを育てる」を教育目標の基本に掲げています。この「こころ」についてお話しします。それは他者に共感する力を持ったこころです。

本学の建学の理念であるキリスト教の中心メッセージは「神が愛したように互いに愛し合いなさい」です。「神の愛」とは、人間一人ひとりのかけがえのない固有の存在を尊び、慈しみつつ、その成長を助ける愛です。聖書の中でイエスは、そのような愛で人間がお互いに愛し合うことによって生み出される世界を創っていくことを説いています。

そのためには、他者が痛みを持っている時、苦しんでいる時、その痛み、苦しみを自分のことと感じる共感能力が必要です。この共感能力とは、感じるだけではなく、その痛みを共にし、その問題解決のために自分ができることは何かを考え、実行に移すことができる力を内包するものです。

本学は、教育と教職員、学生同士の触れ合いを通じて、学生ひとり一人が神の愛で慈しまれていることを体験し、その体験に基づいて育まれる共感能力を身につけて、お互いを大切にして日々を過ごせる教育環境を提供します。

このような環境の中で、ここに集うひとり一人が、よりよい社会の一員として羽ばたけるようになることを目指しています。

2021年度入学式 式辞

 入学生の皆様、ご入学おめでとうございます。そして、保護者の皆様、お子様方を私共の大学にお送りくださったことに心より感謝申し上げます。

 本学は、カトリックの修道会である、聖心侍女修道会によって設立された大学です。現在、日本を含めて世界中に50校余の姉妹校がありますが、そこで働く教職員に向けた「私たちの教育スタイル」という冊子があり、すべての姉妹校が、共通して大切にする教育理念が、記されています。
 その中に、清泉の姉妹校すべてが目指すことの一つは、そこに学ぶ者たちが「自分の家にいる」と感じることができることである、という文言があります。では、「自分の家にいる」と感じることができる教育環境とは、どのようなものでしょうか。その特徴のひとつを、別のことばで表現するならば、「安心して、間違うことができる場所」、であると言えると思います。
 私たち人間は、他の動物とは比較にならない、高度な知性を与えられています。その知性を使って、人間は、日々、身の回りに存在するものや、展開する出来事について質問を発し、その質問に促されて思考し、思考の結果、様々な知識を獲得します。そして、獲得した知識に基づいて、これまでに存在しなかった「もの」や「仕組み」を生み出し、その結果、多様な文化、文明を築き、今日まで発展させてきました。
 時と場所を超えて、「教育」というものの役割を考えるならば、その基本は、若者たちの、持てる力を限りなく引き出し、人生を実りあるものとする素地を作るとともに、よりよき世界を創るプロセスに、どれほど建設的に参加できるように、彼らの成長を助けるか、ということにあるのではないかと思います。
 知性の働きは、誰かに強いられて起こるのではなく、自発的に生じるものです。したがって、本来的に知性が動く限り、この目的が達成されることは、さほど困難なことではないように思われます。
 しかし、このプロセスを阻む、いくつもの問題があります。その問題の根本にあるのは、「間違うことへの恐れ」です。
 私たちの思考のプロセスは、必ず正解にたどり着くわけではありません。そこにはいつも、様々の間違いが生じる可能性があります。一生懸命考えて行動したにも関わらず、何らかの間違いをおかしたとき、周りの人々がその間違いを責め、糾弾するとき、わたしたちの心は恐れ、怯えます。そして、その恐れは、質問を抱くこと、思考すること、自ら行為を選択して動くこと自体への恐怖となって私たちの日々の歩みにブレーキをかけるのです。
 また、私たち一人一人はそれぞれに特有の弱点を持っています。間違いを糾弾される経験を通して、私たちは、自分の弱点が人の目に明らかになることによって社会から拒絶されることを恐れ、口をつむぐようになります。そして、間違いをおかす自分、弱点を持つ自分そのものへの軽蔑、存在意義の否定、というように、雪だるま式に、自己嫌悪の闇を深め、自ら考えること、言葉を発することをやめ、孤独の中に閉じこもるようになっていくのです。
 今、私たちが生きる世界は、これまでのどの時代とは比較にならないような難問と困難に満ちています。そのような世界を少しでも良い方向に動かしていくためには、その世界の中に生きる人間それぞれが、自分の存在に自信と誇りを持ち、それらに支えられて、どのような問題に直面しても、問題を直視し、間違いを恐れずに、他者と手を取り合って、解決に向かって歩みを進めることを喜びとする「成熟した知性」が必要です。
 しかし、そのような知性が育つためには、間違いをおかしても、それがとがめられないだけはなく、間違いがどこにあったのかを共に探り、その間違いがあってこそ生み出される、新しいレベルの理解に到達する助けの手が、絶えず差し伸べられる環境が必要です。
 そして、そのような環境は、それぞれが抱える欠点、弱点のすべてをひっくるめて、一人一人の人間の存在そのものをいくつしみ、尊び、「何があろうと、あなたそのものが大切」と考え、伝え続ける基盤の上に成り立つものです。
 そのような環境に置かれるとき、人は、その場所を「自分の家」と感じることができ、様々な恐れという束縛から解き放されて、心が望むままに、知性の翼を羽ばたかせることができるのではないでしょうか。
 清泉が建学の精神とするキリスト教の中心には「アガペー」という概念があります。「アガペー」は、今日では、「神の愛」と訳されています。しかし、初めて日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、この言葉の意味を正しく伝える日本語をみつけるのに苦慮した末、「デウスのご大切」と訳しました。「デウス」は「神」のことですが、「ご大切」という言葉によって、キリスト教の伝える神が、私たち一人ひとりをあるがままに、大切にしていること、そしてそのような無条件の慈しみが、いかに、人間を、様々な恐れから解放し、本来的な豊かさに満ちた人生を歩ませる「基本栄養素」となるかをよく伝えている言葉であると思います。

 最近視聴した『虹色のカルテ』というテレビ番組が心に残っています。高畑充希演ずる、医者である主人公「真空(まそら)」は、多発性筋炎という免疫システムの難病にかかり、念願かなって勤務し始めた大きな病院での職を追われます。病気によって、自分という存在を否定された彼女が、絶望の果てにたどり着いたのは、山の中の「虹ノ村」という小さな村落でした。その村の診療所で、医師のひとりとして働き始めた真空は、再び追放されることを恐れて自分の病を隠しています。しかし、やがてその病気を隠しきれなくなったとき、村の人々がそんな自分をどれほど大切に思い、受け入れてくれているかを知ります。そして、同時に、その村での生活を通じて、自分の心が恐れと自己否定から解放され、生き返りつつあることに気付くのです。真空は次第に、次の事実も理解するようになります。それは、村人の、真空への慈しみは、村の人々自身が、それぞれ、病や様々な問題、心の痛みを抱えるがゆえに、互いを受け入れ、思いやることで育まれてきたものであったということです。
 最終回、病気の悪化で町の病院へ搬送される救急車の中で、同僚の医師が「帰ってこい、絶対帰ってこい。あそこはお前の家だ」と励まし、真空がしみじみとうなずくシーンがあります。そして、その呼びかけに答えるように、しばらくの入院生活を経て小康を得た真天が車いすで村に戻り、待ちわびた村人たちの喜びの渦に巻き込まれる最期を見て、胸を熱くされた方もあるのではないでしょうか。
 清泉の教育は、聖ラファエラ・マリアという創立者が、聖心侍女修道会をたてて以来、140年以上、人間としての在り方、生き方の基本、様々な専門分野について学ぶ材料を提供し、指導を行うだけでなく、その教育基盤として、その学校で学ぶ生徒、学生が、これまで述べたような意味で、その学校を「自分の家」と感じることができる環境を、つくる試みを続けてきました。
 私たちを取り巻く環境は、いつの時代にも、人間を痛めつける刃を秘めており、その刃によって傷つけられることは、避けられないかもしれません。しかし、真空が経験したように、自分がかけがえのない存在であること、どのような弱点をもちながらも、共に生きることを望まれる存在であることを、心から経験していただきたい。そして、自分もまた、学びを共にする友をいたわり、痛みを受け止め、手を携えて困難に立ち向かうことを幸いとする人間として、成長していただきたい。
 そして、その経験を通じて、この世界には、雨の後に虹がかかるように、厳しい刃の裏に、我々が受ける傷をいやし、再び立ち上がらせる力もまた、豊かに備えられていることを信じることのできる心を、清泉という学び舎で培っていただきたいと願うものです。

 入学おめでとう。これからの学びの日々、清泉を心の基地として、皆さんの心が自由に、高く、羽ばたくことができますように。

清泉女学院大学
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学長  田村 俊輔

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