学長メッセージ
学長 田村俊輔
本学は「こころを育てる」を教育目標の基本に掲げています。この「こころ」についてお話しします。それは他者に共感する力を持ったこころです。
本学の建学の理念であるキリスト教の中心メッセージは「神が愛したように互いに愛し合いなさい」です。「神の愛」とは、人間一人ひとりのかけがえのない固有の存在を尊び、慈しみつつ、その成長を助ける愛です。聖書の中でイエスは、そのような愛で人間がお互いに愛し合うことによって生み出される世界を創っていくことを説いています。
そのためには、他者が痛みを持っている時、苦しんでいる時、その痛み、苦しみを自分のことと感じる共感能力が必要です。この共感能力とは、感じるだけではなく、その痛みを共にし、その問題解決のために自分ができることは何かを考え、実行に移すことができる力を内包するものです。
本学は、教育と教職員、学生同士の触れ合いを通じて、学生ひとり一人が神の愛で慈しまれていることを体験し、その体験に基づいて育まれる共感能力を身につけて、お互いを大切にして日々を過ごせる教育環境を提供します。
このような環境の中で、ここに集うひとり一人が、よりよい社会の一員として羽ばたけるようになることを目指しています。
2021年度卒業式 式辞
みなさん、卒業おめでとうございます。この会場にご家族の皆様をお招きすることはできませんでしたが、今日まであなたがたを支えてこられたご家族の皆様にもお祝いを申し上げます。
みなさんが本学から旅立とうとしている今、世界の歴史に地殻変動が起きています。新型コロナによるパンデミックや地球温暖化は、決して自然の成り行きだけから生じたものではなく、人間の自然への介入が影響していることは否定できません。また、個人的狂気からとしか思えないようなウクライナの人々に対する侵略戦争による打撃の広がりに世界が翻弄されている中で、私たちのなかに一つの疑問が湧き上がってきます。それは、このままでいくと世界は破滅してしまうのではないか。人間は、結局のところ、自分たちの手で自らと世界を滅ぼしてしまうのではないか、という疑いです。
人間を他の動物と異なるものにしているのは「自我」です。「自我」は、過去から未来へと思考の流れをつなげる能力を私たちにもたらしてくれました。
木々の間を飛びまわる鳥たちは、日々の餌をどのようにして得るか考えることはできても、明日を想像し、未来を予測して動くことはできません。人間にはそれができます。しかし、未来について考えることができるという能力は、もう一方で、世界の流れの中に不穏な、不確定要素が増えれば増えるほど、未来についての「恐れ」とそれからの「不安」をもたらすものにもなるのです。
恐れは、私たちの足をすくませ、動けなくしてしまいます。現在、世界中の人々が世界のこれからについてどれほどの「不安」にとらわれていることでしょうか。そんな中で、わたしたちは、恐怖の前にひれ伏すほかないのでしょうか?
この疑問に取り組んだ人がいます。ルトガー・ブレグマンという33歳のオランダ人で、歴史家でもあるジャーナリストです。ブレグマンは、ここ数世紀の間世界に広がっている一つの思想について疑問を抱き、リサーチを開始しました。その思想とは、「人間の根本は悪であり、利己的で、残忍で、放置すればとんでもない悪を犯し、破滅に向かって傾いていく。そのような人間たちをコントロールするには力によるしかない」という人間性悪説(にんげんせいあくせつ)に基づいた暗い思想です。ブレグマンは、そもそも、この思想に充分な根拠があるのかという疑問をいだきました。そして、この思想の真偽を確かめるため、世界中を飛び回り、関係者に直接話を聞き、膨大なデータを集めて、検証しました。そして、一つの結論にたどり着き、それを『Human Kind』という本として発表しました。原著は2020年にオランダで出版され、ベストセラーとなり、世界46か国で翻訳され、日本でも昨年、「希望の歴史」という副題付きで翻訳出版されました。
この本の中でブレグマンは、人間性悪説(にんげんせいあくせつ)は根拠が薄いということ、それとは反対に、「人間の根っこは善であり、善を希求して絶えず進み続けてきたこと。人間が破壊的な行為を犯すことがあっても、それらの行為による破壊と絶望に対抗し、力を合わせて歩き続ける力が人間には備わっており、その力が発揮されてきたからこそ、今日、世界が存続し、人間は生き延びることができた」と主張し、その主張を根拠づける実証的なデータをいくつも提示しています。
もちろん、この考え方に対して楽観的な「希望的観測に過ぎない」という批判もあります。人間が、善なる方向へ向かおうとする傾向を備えているとしても、悪へ傾きやすいことは誰の目にも明らかです。
しかし、ブレグマンが訴えようとしているのは、これからの日々、わたしたちが、どちらの傾向、つまり、「悪への傾き」、あるいは「善への傾き」のどちらを自分の軸足として選び、それを優先して、自分の日々の行動を選んでいくのか、という問いかけなのです。つまり、わたしたちの「選択」を問うているのです。
混乱と困難の広がりの中では、わたしたちは未来への不安に押しつぶされ、心は絶望に閉ざされる傾向が強くなってきます。そんな中で、人間に備わっている、善を積み重ねて悪を乗り越えようとする力を信じて、その力を発揮しようとするのか、それとも、絶望と諦めの中に身を沈めていくのか、その選択がわたしたちのひとり一人に、問われているのです。
キリスト教は旧約の時代から今日まで、人間が犯すおろかな過ちとそれによって引き起こされた様々な困難の歴史を記録しています。しかし、そのような歴史を通じて示されてきたのは、どんな困難な時にも、人間が立ち上がり進み続けることを助ける神の手の存在でした。
本日朗読された聖書の箇所で、イエスは「未来について思いわずらうな」と説いています。「思いわずらうな」とは「未来について考えるな」ということではありません。そうではなくて、未来について考えるときに生じる不安に足をすくわれて、立ち止まることなかれ。神は人間に、よりよき世界を求めて歩み続ける力を与えている。その本来的な力によって進み続ける限り、我々が必要としている助けは必ず与えられる。それを信じて、絶望に負けずに歩き続けよ。ということではないでしょうか。
皆さんはこの清泉での授業を通じて、キリスト教のメッセージの一つ「Dominus Tecum神はあなたと共におられる」という言葉を学んできたと思います。困難な世界のただなかに生きながら、この御言葉の意味を改めて考えるとき、神は「どのように」我々と共にあるのか、と疑問に思い、絶望的な状況の中では「神様、あなたがこの問題を解決してください!」と訴えたくなります。
そのような問いに対してローマ教皇フランシスコは次のように述べています。
「神は、困難を取り去るのではなく、困難に立ち向かう力を与えてくださいます」と。
つまり、神が我々と共にあるのは、人間に代わって問題を解決するためではなく、痛みを持ち、迷いつつも、歩み続けようとするわたしたち人間を励まし、助け続けるためである、ということなのです。
このように先が見通せない時代にあって、未来について考えるとき、不安と絶望がおそってきます。そんなとき、恐怖に身をすくませ、立ち止まって何もしない選択もあります。しかし、神のたえざる助けを信じ、今、自分にできることを大切にし、「大丈夫だ。きっと道は開ける。よりよい世界を築くことができる」と考えて目の前に示された一歩を進めることも可能なのです。そのどちらの道を選んでいくか、その選択は、私たち一人ひとりにかかっています。
どうぞ、皆さんのひとり一人が、神からの助けの手を信じて、困難の中にあっても歩み続けることができますように。
清泉女学院大学
清泉女学院短期大学
学長 田村 俊輔